インタビュー

【浪花うまいもの会】の歴史についてのインタビュー

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(左)津の清 取締役社長 中村育二郎 氏 (右)小倉屋山本 常務取締役 長谷川鎮巨 氏

2004年04月23日 【浪花うまいもの会】の歴史をお伺する為、小倉屋山本オーガニックビルにて、
中村育二郎氏(津の清)・長谷川鎮巨氏(小倉屋山本) ・ 相田耕二氏(庵月堂) にお逢いして来ました。
津の清 取締役社長 中村育二郎 氏に、主に 戦後まもなくの頃に結成された、歴史ある
「会」 の興味深いお話をお聞きいたしました。
小倉屋山本 常務取締役 長谷川鎮巨氏には、会の仕組みなどを詳しく教えていただきました。

※2004年04月23日当時、小倉屋山本 常務取締役だった長谷川鎮巨氏は、4月末にて
惜しまれつつ退職なさいました。


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「戦後間もなく、まだ 「甘いもの」 が大変貴重だった頃に、当時の食糧庁の長官が砂糖等の材料を集め、全国の菓子メーカーに呼びかけ、催事を開催したのが大盛況だったんです」

「大阪からは、弊社(津の清)と鶴屋八幡さんが出店したのだそうです」

「すごかったらしいですよ。 あの貨幣価値の低い当時に、一店舗1日30万円以上の売り上げがあったらしいです」

「その全国メーカー合同の催事の成功を見て、「大阪だけでこういうものができないか?」という呼びかけが某百貨店から来たのが 【浪花うまいもの会】 の始まりだったそうです」

「【浪花うまいもの会】 もよく売れました。 あの貨幣価値の低い時期に、会期中に一店舗 70~80万円の売り上げがあったんですよ」

「初代の会長さんは、当時最年長だった 大阪せんべい 『松屋』 の故林社長さんでした」

「まだきちんとした事務局とかもなく、当時 玉造で営業していた 『松屋』 の 林松太郎会長が、会長 兼 営業 兼 会計 兼 交渉役 と、亡くなるまでやって下さったんです」

「その当時 【浪花うまいもの会】 の体制をきちんと作ろうということになり、某百貨店が発起人というかたちで、うち(津の清)のおやじと、鶴屋八幡さんと、小倉屋山本の先代さんと、すし万さんのお父様 の4人が働きかけ、出来上がったものを 松屋さんに渡して 会長になっていただいたといういきさつがあったのです」

「百貨店との契約は、『年に2回(東京・大阪)にて、加盟店全店参加による催しを開催すること(契約50回)』 が条件でした。」

「二代目の会長が、うち(津の清)のおやじでした。 と同時に、これまで会長宅でやっていた経理を分業し、経理は小倉屋山本さんが引き受けてくださったのです。」

「昭和24年に発祥。 組織化したのが昭和54年だったでしょうか…
うち(津の清)のおやじが会長だった時に、次の会長は小倉屋山本の先代さんと決まってたのですが、残念なことに亡くなられたので、今の すし万のお父様が 次の会長になったんです」

小倉屋山本 常務取締役 長谷川鎮巨 氏「うち(津の清)のおやじが亡くなり、すし万の先代さんが会長をやられて(昭和48年から、すし万先代が会長)しばらくした頃に、私と山本博史さん(現 小倉屋山本社長)の二人が某料亭に呼ばれまして、「浪花うまいもの会ができた当時のメンバーは、もう私一人しか残ってない。 もう次の世代。 これからは あなたたちがやるのだから 頑張りなさい」と、御馳走をいただきながら叱咤激励されました。」

「今の 《会則》 等ができたのも、この頃でした」

「発起人となっていた某百貨店との 《催事50回の契約》が終了した 1999年からは、【浪花うまいもの会】 は もうどこからも拘束されることなく、新しい道を歩み出したんです」

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インタビュー裏話

小倉屋山本オーガニックビルの地下のレストラン【Joged】で、ランチをいただきながらお話を伺ったのですが、エキゾチックな素敵な雰囲気で、お料理もとっても美味しかったです!

『白い巨塔』の作家、山崎豊子(やまざきとよこ)さんは、小倉屋山本の先代の妹さんで、『暖簾』という小説は、小倉屋山本が舞台だった という話とか、
中村社長は 学習院で かのお方とクラスメイトだった! とか、【浪花うまいもの会】 以外の話もたくさん聞いて、とても楽しい時間を過ごしました。
(…というか、【浪花うまいもの会】の話が半分。 それ以外の話が半分。 という感じだったかもしれません…)